5月月例会の様子
5月月例会の様子

地域文化学会第180回月例研究会・公開セミナー 2013年5月11日(土)

講師:李有成先生(国立台湾中央研究院欧米研究所 特聘研究員 教授)

翻訳:北島義信先生

テーマ:帝国のトラウマについて—M・ハミードのアメリカ帝国批評—

 

[講演要旨] 

 

 トラウマとは、個人と集団の間にある境界を融合ないし曖昧にすることの過程である。これを9.11の文脈でとらえたとき、その犠牲者に対する哀悼は、多くの米国人にとり国家的出来事として解釈される。かくして、それは国家建設の過程に包摂され、広場や式典という記念の形態へと昇華される。この哀悼は、喪失と犠牲を受容するための儀式であり、その前提として、かかる犠牲者の名前を記憶しておくことが必要となる。他方、それを契機として開始されたイラク戦争では、従前に比して多大な犠牲者を出したにも拘らず、イラクの人々に対する追悼はなされずにいる。

 パキスタン人作家のモーシン・ハミード(M. Hamid,1971-)は、その著作『The Reluctant Fundamentalist(邦訳:コウモリの見た夢)』において、米国帝国主義を背景とした第三世界を苦しめるトラウマを鮮明に描き出した。ここでは、ラホールの喫茶店で見知らぬ米国人に出逢う主人公チャンゲズによる、それまでの米国における生活を回顧した独白劇が展開される。米国に対する憧憬から彼の地へと赴き、世界的企業の一員として活躍する彼の態度は、9.11を境として豹変する。これについて、その名前(changez)が「changes(変化)」を暗示するものとして読まれる傾向にあることは注目に値する。

 主人公がギリシア旅行中に恋仲になるエリカ(Erica)は、米国(America)の短縮系もしくは米国ナショナリズムの擬人化として読まれうる。今は亡き恋人クリス(Chris)の面影を追い続ける彼女は、極度に自己陶酔的であり、その価値観に殉じ、他者の運命を形成する欲望に駆られる「新世界」の象徴として描かれる。また、彼らが勤務するグローバル企業のイニシャル(US)に注目して、これを米国が有する力の象徴とみる向きもある。すなわち、アメリカンドリームの体現は、周辺化された経済、あるいは第三世界につくられた自由市場に名を借りた経済的暴力の形態としてみてとれる。

 9.11の直後、ニューヨークを取り巻いた異様な社会的・政治的雰囲気は、其処彼処に掲揚される星条旗に象徴された。かような集団的行動は、国家的な哀悼を意味しており、個人ならびに国家による喪失の表れとされる。ここで、米国と他の世界、すなわち「西洋(キリスト教)対イスラーム」という二項対立的な図式を確立させることは、その緊張と敵意を明確にする行動として位置づけられる。この点、小説中では国旗が愛国主義的センチメンタリズムの象徴であり、国民の怒りを示威することの象徴として写生されている。

 この物語の終盤では、他国の問題に絶えず干渉する米国の振る舞いについて、これに対する痛烈な批判が展開される。この批評は、バトラー(J. Butler, 1956-)の解釈する「現実感喪失の暴力(The violence of derealization)」に基づくことで哲学的に理解される。すなわち、熟慮の払われない命には現実感が伴われないことから、物理的暴力を惹起する「非人間化」を誘発させる。9.11以後における戦争の回想から生まれたこの思想は、グローバル・コミュニティの一員である米国が、国際政治におけるその役割を再考し、自己を再提起することに有効である。

 みてきたが、この作品はポストモダンやポストコロニアル批評を補完する、文学的努力の賜物として評価される。つまり、世界各地における米国の振る舞いにつき、その傲慢性を物語の中で指弾する営為である。したがって、米国が体験した9.11のトラウマは、それまで他国に与え続けてきた「帝国のトラウマ」と密接不可分の関係にあるものとして理解される。李先生は、この小説が遅ればせながらも、米国の新たな役割に対する時宜的な反省を提示していることについて、その理由はかような歴史的視座によるものであることを指摘して講演を終えた。

 

以上