12月(175回) 講演要旨・質疑応答

地域文化学会第175回月例研究会・公開セミナー 2012128日(土)

講師:黒田壽郎先生(国際大学名誉教授)

テーマ:外部性の回復と文化

 

[講演要旨]

 現代社会が抱えている問題は、自己認識の様態、自他との関連性および欧米哲学史の中核をなす自己と他者の二項対立的把握にある。この問題が現在の生活世界において、どのように反映されているかについて分析し、それを乗り越えるために何が必要であるかを、西欧文化と構造を異にするイスラームと仏教にみる。

 現代は、資本主義と民主主義を梃子とするグローバリゼーションの下にある。資本主義では、少数の巨大資本と多数の貧者が存在し、平等の概念は崩壊しており、博愛の意識は停滞、労働の自由も限定されている。非民主的な性格に基づく状況の生活態度は個人主義化し、他者、外部性を喪失させている。ここでいう他者とは、自己の認識を越えたもの、他者性そのものであり、その総体は無限に連なるものである。その無限に対する眼差しの欠如、即ち他者性への無関心は、精神性の後退、社会性、共同体意識をも退化させる。他方、民主主義は、自由、平等、博愛を原理とするが、現実世界の状況に照らして、その効用は既に期限となっている。すなわち、資本主義における自己中心主義が生み出す不自由、不平等および抑圧といった対極的なものに歯止めをかける機能が働いていないのである。この不安定性の根拠は、自己から発せられる自由、自己の求める平等、自己起源の博愛、即ち自己中心的な枠組みしか持たれていないからであって、だからこそ求められているのは、他者が求める自由、平等、博愛となる。

 その一助を求める方途の一例として、まずイスラームを検討する。イスラームにおいて、タウヒードとは唯一性の原理、帰一性の原理をいう。絶対者のタウヒードと被造物のタウヒードがある。被造物のタウヒードの原理は、差異性、等位性および関係性である。これは、存在者の立ち位置を明らかにするための三極構造である。これは、主体発の自己中心主義に対し、客体発の他者中心主義であるがゆえに、外部性を優先させ、存在者全てを参照軸に加える普遍性、他者を切り離す契機を解消している。ここで、自他との関連性は、主従関係ではない水平的な親密さ、共在を根拠とする慈愛、慈悲の根拠である。他者への慈悲心の根拠は、共在が要請する親和性にある。重要なのは、個が万物と相互関連性をもって、無限、即ち真の他者と向かい合って慈悲心をもつからこそ、三極構造は更に強化されることになる。イスラームの被造物のタウヒードは、信者たちの行為規範となるシャリーア、それに基づく共同体ウンマのありようへと展開されてゆくことになる。こうして、イスラーム文化では、基本的な参照軸が自己をはるかに上回る現実世界、神の創造も個人の主体にとっては外部であり、外部性を自己から閉ざす契機が欠如していることがわかる。

 仏教も同様のことがいえる。釈迦が悟りをひらき、その後多くの宗派が登場した。とはいえ、教えの多様性に基づく異派の登場の一方、基本的発想は一つである。仏教の構造は、上昇道(修行、小我)~悟り(大我)~下降道(慈悲行)である。修行は煩悩を除去し、外部性へ目覚めを促し、その結果として自他不二の境地を得て、慈悲行を遂行する。これが、仏教の本質である。この意味で仏教の企てとは、仏法に基づく万物の救済、即ち大我という外部からの壮大な慈悲への促しである。これは、全世界を対象とする精神的な企てであって、この普遍性が教えの細部を更に強化しているといえる。そして、仏教的な世界観における世界の存在者は、縁起の思想において差異性、等位性および関係性を有しているとされる。

 みてきたように、イスラームのタウヒードと仏教の縁起の思想は類似する。その相違は、有を基本とした差異性、等位性および関係性と無を基本とした差異性、等位性および関係性である。しかし、強調すべきは、いずれの場合にも他者性を尊重している点である。現在の文化文明の危機は、他者性が喪失していることにある。他者性の尊厳を取り戻すことにより、現代社会の危機は克服しうる。

 

[質疑応答]

上記の講演に対して、以下の質疑応答がなされた。

 

(聴衆1)欧米文化は世界全体でみると特殊な文化であると思うが、軍事力と結びつき世界を征服し、欧米以外の国々は我々も含め、欧米文化に迎合せざるを得ない。ここまでとてつもない文化を作り上げた欧米文化の特質は何か。

(黒田)欧米の行動がキリスト教を基本としているならば、キリスト教自体の問題性、一番大きなものは三位一体説と考える。多数の人のなかに代表者をつくり、それを特権視して、権力ある者とする。一種の中心があって、その中心が細部を侵略していく。ネオコンの手法は、西欧がのし上がってきた端的な例といえる。

 

(聴衆2)日本のなかで客観的に自分をみることの訓練が行われてこなかったことが未成熟な大人をつくりだしたのではないか。キリスト教原理の資本主義、民主主義その制度疲労との関係はいかなるものか。

(黒田)いわゆる資本主義的国家においては、外部性の喪失が濃厚に表れている。人々が望んでいなくとも、経済政治情勢自体のシステムによって個人主義化が進み、外部から疎外が生じることになる。これは自分だけではなく、制度の問題もある。

(司会)日本における訓練の不在と近代システムは二分化されるものでもないのではないか。たとえば、いじめの問題であるが、外部性がないなかで起こるいじめの苦しさと外部性があるなかで起こるいじめ、といった時代の相違があるのではないか。決して若い人たちは、外部性のなさの苦しさを分かっていないという訳でないと思われるが。

(聴衆2)いじめる側もいじめられる側にも共通するのは、閉鎖された家族であるということである。そこに外部性の問題が出てくるのではないか。

 

(司会)「共存」と「共在」はどう違うのか。

(黒田)「共存」は、主体的なイニシアチブをもって他者と一緒に存在するということ。主体性が強い。「共在」は、相手に促されて他者と一緒に存在するということ。客体性が強い。

 

(聴衆3)今の若者は、個人主義なのに全体を統一しようとする、即ち空気を読まないことを嫌っている。現代の若者は、自分以外の他者がある範囲のなかに収まっており、馴らすことが可能であると考えおり、これが全体を統一しようとする圧力になっているのだと思った。他者は多様だが、多様さも無限にある。人間は無限さの前に立ち尽くしている。仏教では、無限に対し自分のなかで枠をつくり、そこで満ちるか満ちないかを重要とする。すなわち、無限と人間の有限な能力との折り合いをつけるため「足るを知る」、「今生」という枠を作る。こうしたなか、無限の他者とどう付き合っていけばいいのか。

(黒田)無限とは付き合いようがない。どこかで「足るを知る」というように限定しなければならない。ただし、無限を認めないということと、無限を知り取捨選択することとでは、根本的に異なる。自らが判断し、計測する範囲を超えたものがこの世の中にあるということは明らかであり、無限と付き合っていくことは重要である。

 

(聴衆4)戦時中、日系人が砂漠などに建てられた強制収容所で、見事な美術品を作った。こういうエネルギーがどこから出てくるのだろうか。

(黒田)人間というものは、価値観念で束縛されない限り、自然、外部性と交渉があるところではそういったものが出てくる。それこそ、人間の生きる証ではないか。

 

*このような議論のなかで、他の聴衆から、自己の文化をもつことによって一人の人間がとてつもないエネルギーを有するということを示すものとして、シオドーラ・クローバー著、行方昭夫訳『イシ―北米最後の野生インディアン』(岩波書店、2003年)が勧められた。

 

(聴衆5)イスラームなどのようにそれが教え(マニュアル)として語り継がれてゆくものが存在しない場合、結局は個人による世界の捉え方の差の問題にならないために、世界の他意性、等位性、関係性をどうすればパッケージとして捉えられるか。

(黒田)宗教には、宗派や教えが様々にある。私は、それを様々に学んだが心におちなかった。ドストエフスキー(死者の書など)を読んで、自身は自身でありえないのだと思った。これは、換言すれば、自身をどう乗り越えるのかということである。自身がそれだけで確立し得ない、完結しないということではないだろうか。 

(司会)イスラームでも、教えが埃をかぶったままの場合もあり、そのパッケージの教えをどう行動するかが問題となっている。


(聴衆6)西洋的民主主義の概念にある自由、平等、博愛とイスラームの差異性、等位性および関係性は、それぞれ対応しているように思う。では、何が異なるのか。

(黒田)それは、今回の最も重要な点である。すなわち、似ているが枠組み自体が異なるのである。問題は、何の自由、何の平等、何の博愛なのかということであり、そのいずれにおいても問題となるのは、主体的なものであるということである。これに対し、イスラームのそれは他者が基本となっている。

 

(聴衆7)ネオコンについては、民主主義の制度自体を押し進めようとするものだと解釈したが、黒田先生のお考えはもう少し深いところにあるのか。

(黒田)ネオコンの良さについては、様々な見解がみられるが、具他的にネオコンがしてきたことが、経済的な自由を強調しながら社会関係の公平さといったもの、それを維持するものを全て取り除いてしまったことに問題がある。そのようなネオコンの実態については、ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン(上・下)』を参照することを薦める。

 

(聴衆8)終戦によって、それまで強く軍国主義を説いていた先生の教えは全く変わった。変わらなければならなかった。その経験を通じて、人は揺らいでいるときに何かを信じるのではないかと思った。すなわち、社会によって自己認識は容易に変えられてしまうのではないだろうか。この点について、いかにすれば、人はそれを乗り越えられるのか。

(黒田)現状況は確かに、個人ではどうすることも出来ない絶望的なものといえる。ただし、自分が正しいと思うことを伝え、発表し、それに基づいてできるだけ行動する。それが人間として基本的な在り方だと思う。

 

(聴衆9)電子メディア(客体)の登場によって、それがメッセージをパッケージとして発していることから、主体性が揺らいでいると考える。そのため、主体性が不安定なものになっている。なかでも、文化の独自性を並行的な価値観として捉える(両立する)ためには、批判性の意識を持ち続け必要があると思うが、いかがかなものか。

(聴衆10) 電子メディアの登場によって、揺らぎが生じたことは確かである。しかし、それがなければ(揺らぎのない世界)、現代の格差のような問題を認識できなかった(沈黙の世界)のではないだろうか。すなわち、電子メディアが二項対立的なものを崩すことで自己が安定した。これを受けて、他者との関係が分断されているような状態を崩されたことに意義があるのではないか。

 

以上